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耳(ミミ)とチャッピの布団

耳(ミミ)とチャッピの布団

近藤紘一さんのこと

私がバンコクのホテル勤務をしていた頃、当時サンケイ新聞の特派員だった近藤さんが、タイ駐在(支局長)のためホテルに長期滞在でこられました。
たぶんベトナム戦争の末期か、終わった直後だと思います。
ご存知の方も多いと思いますが、近藤さんはベトナム駐在の時にベトナム人の方と結婚されています。
もちろん、バンコクに来られた時も奥さん同伴で、また奥さんの前の旦那さんとの間にできたお嬢さんも一緒でした。
ところがバンコクに着任して一週間もたたない内に、中東で戦争が勃発したため、近藤さんは家族をホテルに残したまま、中東へ取材に行ってしまわれました。
残されたご家族は、当時日本語、英語、タイ語ができなかったため、見知らぬ土地で苦労されたと思います。
私は、このご家族に何をしたという訳でもなかったのですが、取材から帰られた近藤さんになぜか感謝されて、それ以来随分懇意にしていただきました。
そうこうする内に、近藤さんの執筆した「サイゴンから来た妻と娘」が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
それまで私は近藤さんの執筆活動に無知だったので、この事に大変驚きました。
近藤さんといろいろお話していて、同じサンケイ新聞の先輩として司馬遼太郎さんとお付き合いがあったりと、自分とは無縁の世界を教えていただきました。
近藤さんはベトナム時代にマラリアにかかっており、この影響か体調の悪いことが多々ありました。
近藤さん自身も、ご家族の先行きも含めてそのことを気にされていたようで、ある日私に日本へ帰って自分の事業を手伝ってもらえないか打診がありました。
近藤さんは鎌倉に家があり、家の一階をベトナム料理のレストランに改装して、奥さんにやらせたい希望だったのです。
そして自分はサンケイ新聞を退職して、執筆活動に専念する意向でした。
そこで私に奥さんを補佐して、店を取り仕切ってくれないかとの話だったのです。
当時の日本では、まだエスニック料理は未知で、はたしてうまくやっていけるのか訊ねたところ、開高健など著名な文化人を多数知っているので、この方たちに頼んで贔屓にしてもらえばなんとかなるだろうとの話。
当時、私もレストランビジネスにノウハウなどなく、要するに素人どうしの話だった訳です。
結局この話はウヤムヤになってしまいました。
私が帰国した後、数年して近藤さんがガンでなくなられたことを知りました。
今も私の実家に近藤さんのサインが入った「サイゴンから来た妻と娘」を大切に保存しています。


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